ご由緒


社伝によると人皇第五十代桓武天皇の延暦十二年、征夷大将軍坂上田村麿が東征の折り、此の地より、遙かに秀麗なる冨士の山容を拝し戦捷を祈請、数々の苦難災いを断ち四年にして大勝のうちにその功業を収めたので神護を謝し社殿を草創したという。
時に大同二年(皇紀一四六七年・西暦八〇七年)の昔である。

 「当社は田村麻呂蝦夷討平し依御祷り富士郡大宮浅間と同時に宮建にて大同二年草創、上浅間は冨士山御室、下浅間は当村鎮座」(甲斐国社寺記)
 
由来当神社への崇敬は武士、庶民の間に洽く篤く、中世は武田家の祈願所として尊信あり。

古くは、上吉田及び松山三村を含む富士吉田市一円の総鎮守の産土大神である。
「後に各村で浅間明神を一祠に祀るが、今も猶上吉田には子生まれて百日の後社参するに、先ず下宮へ参詣す」と「甲斐国志」に記されている。

当神社の社号は、最も古い記録では「宮」と記され、時代が下り近隣各村で浅間神社が祀られるようになると「下宮浅間神社」「富士下宮浅間宮」と呼称されていたが、明治期に入り現在の「小室浅間神社」と改称されるようになった。

「小室(御室)」とは、そこに神霊が常在するの意で、富士山で四囲に石柱を樹て祭祀されていた事からきており、浅間信仰中独自の位置づけを持つもので、その侭山の神、田の神信仰及び氏神信仰と重層する形で、当神社への崇敬が展開されてきたところに年間の諸祭祀が位置づけられている。
又、市内の中心に位置するところから、年間の諸祭事に参詣者多く愈隆昌のうちにある由緒深き神社である。


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