境内建築物紹介

本殿建築について

現本殿は正面一間、側面背面二間、檜皮葺(ひわだぶき)入母屋(いりもや)(外露出入母屋部分銅板葺き被せ)平入り、向拝一間を設けた唐破風、軒先・()垂木(たれき)三手先(みてさき)組物(くみもの)に、身舎四方に縁高欄廻し、縁下腰組・四手先(してさき)組物(くみもの)と意匠も凝った造りで、宝暦七年(西暦一七五七年)に造営が開始され明和四年(西暦一七六七年)に上棟と十年かけて再建。

 

棟梁は北口本宮の造営修復も手がけてきて、都留郡内を職域としていた郡内大工仲間の筆頭格(御役大工棟梁)である下吉田村は萱沼弥左衛門(初代から九代まで世襲)と萱沼徳右衛門。

建築に関わる文献資料が萱沼家文書として詳細に残されている。

 

要所を飾る彫り物は武州児玉群本庄宿(現埼玉県本庄市)江原弥平治・藤正光と刻まれている。

江戸時代を通して郡内大工仲間は、他地域の大工を介入させない強固な排他的職域を有していた事が解ってきており、当時に他地域の彫物大工が彫刻に関わっていたことは大変珍しい事例で、全国的に彫刻装飾が隆盛していく中、その後の郡内彫刻技術の参考や彫物大工に限り、他地域の職人を招く先駆けとなった。

(外部リンク 郡内大工仲間について詳しくはこちら)

 

簡易的な測量で本殿は

棟高(全高)約 十一メートル七〇センチ

身舎正面幅約  三メートル半(柱間三メートル二四六センチ)

屋根廻正面約  九メートル半

側面約  九メートル

     唐破風幅約  七メートル十センチ

 

となっており、一間社(正面柱間が一つで、御扉が一つの本殿)としては

山梨県で最大規模の本殿となる。

 

施主は森 若者(下吉田森組若衆)となっており、有力有名者ではなく庶民、主に郡内全域の寄付にて再建された。

宝暦七年(西暦一七五七年)より時間をかけて造営されたこの社殿の建築影響は大きく、御役大工棟梁である萱沼弥左衛門が棟梁を直接務めていたこともあり、この設計図面案は、その後の郡内付近神社建築に見られる一間社、入母屋平入り、大型化した向唐破風、一面に対し角中備角と配置された尾垂木三手先組物、豪華な彫刻等という様式の標準・原形となったと推測されている

 

郡内各々神社本殿にて中小規模化された姿や、時代が下るごとに郡内産や江戸の彫刻大工の手による彫刻が増していき、朱塗りの社殿と江戸彫りに適した素木の社殿を見ることができる。

 

甲斐国では養蚕の為、入母屋屋根の民家が多く、身近で格調高い入母屋屋根は郡内大工仲間の得意とするところで、郡内は全国でも少ない入母屋本殿の郡立地の一つとなっている。

 

郡内大工仲間は仏院の建築も行っており、当社は郡内有力神社の別当(管理担当)をしていた月江寺の鎮守神(寺院の指定守護神社)となっていた為か、禅宗様繰り型木鼻や身舎丸柱粽形、錫杖彫りなどがあり折衷様の社殿としても全体的に和様より、唐様(禅宗様)の色が強い建築となっている。

かつて棟を飾っていた三種の鬼面

 

当本殿は、神社仏閣民家に携わり地域で培われた郡内大工仲間の集大成・完成型と云える。

 

早い時期に軒下に覆屋壁を構築して複合社殿(時代の違う物や独立していた拝殿・本殿を繋ぎ広義の権現造としたもの)化しているので状態が良好に保存されている。

 

外から見える幣殿屋根と接続された入母屋屋根は覆殿の屋根ではなく、本殿そのものの屋根。

 

拝殿の方は度重なる修繕と増改築が行われていて、元は天正年間(西暦約一五七三〜一五八二年)安土(あづち)桃山(ももやま)時代の建築と伝えられており、当初は土間の設えられた割拝殿造りだったと推測され、虹梁だけでも錫杖彫が有るもの無いもの、虹梁中備が組物、簑束、彫刻蟇股などさまざまで、部材も朱塗りや素木が混在しており、随所にその変遷と名残が見られる。

昭和四十六年の改修の際、実肘木に「元文四歳未二月吉日」の墨書が見つかっており古材を利用した建築の可能性もあり、今後の詳しい調査が望まれる。

拝殿の本殿側千鳥破風と幣殿の接続部分。

幣殿の空間を確保するため、拝殿の軒と千鳥破風を削る処理をしている。

 

現在に至るまで神社側の都合で、文化財申請は行っていませんが、本殿拝殿共に地域の歴史文化を語る上ではずせない貴重な物となっている。