神馬と占い、おみくじの神社

冨士山(ふじさん)下宮(しもみや) 小室(おむろ)浅間(せんげん)神社(じんじゃ) 由緒

 

御祭神 木花咲耶姫(このはなさくやひめの)(みこと)

御神徳「五穀豊穣」「人、職、仕事、恋愛等、人生の結び」

「占い事、お神籤(みくじ)」「容姿端麗」「安産」「子供の守護」

「鎮火防災」「勝負運上昇」「養蚕守護」「金運隆昌」など

富士山から流れ来た(けん)丸尾(まるび)溶岩(ようがん)流の突端に御鎮座する当神社は、延暦十二年(西暦七九三年)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東征の折、古吉田の地より富士山に戦捷(せんしょう)を祈願し大勝。その後、征夷大将軍に任じられてからも大いに戦功をあげ、右近衛大将に出世昇進。平城天皇の勅命による駿河国富士郡大宮の宮建ての後に、それまでの神護を謝し大同二年(西暦八〇七年)甲斐国は都留郡古吉田の森の地(現在の下吉田東町辺り)に草創(そうそう)したと伝えられる。

古い記録では、ただ「(みや)」と記されており、産土(うぶすな)大神(おおかみ)鎮守(ちんじゅ)の神(地域の守り神)様として富士北麓に住む人々の信仰の中心にあり、このことは当神社の(つつ)(がゆ)(さい)流鏑馬(やぶさめ)祭に見られる「富士山参詣者の多寡(たか)・十四種の作物の出来高・一年の天候」「各集落の火事・争いごとの有無」といった地域の生活指針となる占いの神事からも(うかが)え、そのために神徳に「占い、お神籤」を(つかさど)る。

 

当神社御祭神である馬に乗る浅間大神・木花咲耶姫様は、古来より馬の産地である甲斐国(現山梨県)の、山の斜面かつ溶岩の岩盤地帯に覆われた富士北麓地域で、農耕や荷駄として必要・重要な生活を支えた馬との関わりのなかで、馬を第一の神使としている。

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時代が下り、富士北麓近隣に多くの浅間神社が(まつ)られるようになると、富士北麓の浅間神社のなかでも富士山から下手(しもて)にあった為、いつしか「(みや)」から「(しも)(みや)」となり「下宮(しもみや)浅間(せんげん)(明神・神社・宮)」や「冨士山(ふじさん)下宮(しもみや)」と名称が定まったと云われ、以来「下宮(しもみや)さん」として地域に親しまれている。

 かつては月江寺の鎮守神でもあり、祭礼では月江寺僧による()(ぎん)が行われ、僧侶による祈願所もおかれていた。

時代が下り、明治に「小室浅間神社」へと改称、それまで使用されていた「棕櫚(しゅろ)の葉」の神紋も以降使われなくなり、表紋を「大和八重桜」に統一、同時に月江寺僧の()(ぎん)の差し止めと退去が行われ、境内の地蔵や仏碑も破却、明治六年(西暦一八七三年)には芝座衆の権利も村役場に差し出され近代社格制度のなかで郷社となる。

棕櫚の葉の神紋は本殿の随所に見ることができる。

 

戦後は、毎日新聞社の山梨県信仰投票で一位に選ばれるなど、氏子崇敬者の信仰篤く、昭和三二年(西暦一九五七年)六月一五日には山梨県で二番目となる別表神社加列となる。

 

古くから、筒粥や流鏑馬の神事による占いにより地域住民の生活指針となっていた当神社は「後に各村で浅間明神を一祠(いっし)(まつ)るが、今も(なお)上吉田には子生まれて百日の後、社参するに先ず下宮へ参詣す」と「甲斐国志」に記されている様に、富士吉田一円の産土大神総鎮守の神様として子供たち、地域の人々を見守り、様々なを執り持っている。