民俗考察・流鏑馬祭神事

富士山下宮小室浅間神社馬蹄占流鏑馬神事

 富士北麓地方に住古より伝承されてきた流鏑馬の中、小室浅間神社流鏑馬の神事は、全国的に類を見ない独自のもので、他に誇り得る内容がその特異性を示している。
 流鏑馬を神事として神社の祭礼に奉納している例は今日尚多く、北は青森から南は鹿児島に至るまでその数は数百に及ぶ。

 元来、流鏑馬は武士が武芸錬磨の為騎射として行われて来たもので、笠がけ、犬追物等と共に鎌倉期に制度化され武士の間に愛好されたところから、当神社の神事も同一視される傾向があり稍もするとあの華麗な狩装束が想像されがちである。小室浅間神社に奉納されるものは騎馬による的射される点が似通っているだけで、神事自体その内容が予祝のものであり御神意の尊崇を以て奉仕する年占い等、信仰的性格が大きく違い、武芸錬磨を建前とするものとは異なっている。

 当神社に古くから行われてきた流鏑馬はこうした意味で神社に奉納される馬蹄占神事は神社及び氏子に現存する古文書等からもこれを容易に窺い知ることが出来る。即ち馬の足跡に依って占いを行うと云うこの独特の祭儀は、そのまま氏神信仰に重層する浅間信仰等の道筋を豊に示すものとして多くの示唆に富んでおり民俗学的にも貴重なものと云える。

 馬主は身につける狩衣・烏帽子・股引・襦袢等、当地方に見られる一般庶民の出で立ちで、地味で見栄えの無いものであるが他の流鏑馬に見ない、いわゆる農民を中心とした富士北麓の人々の生活の中に培われた信仰と地域の社会性を豊に繁栄させた祭りである。

 特色とする点を列挙してゆくと、先づ祭神が富士山にお帰りになると云う信仰形態であるが、そもそも流鏑馬奉納の意義は秋の収穫を俟って山宮へ詣で、そこで行われるところにある。
 農作への報費として春の播種期に里に御降り頂いた神様が富士山にお帰りになる祭りに流鏑馬を奉納して御神徳を御称え申し上げる。そして、神様が翌春再び里へ御降りになられるまでの御留守の間、争い事・火事等が無いように御祈願申し上げ、占いを行うと云うもので、そこには地域社会における団結と協調による平和が最も尊ばれた先祖の時代の社会性が示されると同時に、火事等の厄災の怖しさが物語られている。

 祭りの後、各町毎に「御日待ち」を行うのは町を中心として住民の心の誓いの場を求めていると云うことである。「御日待ち」は「御月待ち」などと共に古来より行われてきた民間の信仰行事で、一名(マチゴト)とも称び、同じ仲間が集まり一夜を眠らずに籠もりあかし、翌朝日の出を待って解散するといった類のもので全国的に行われている。ここには同一の信仰と同一の生活形態の意識があることが判る。例えば当神社流鏑馬神事中「中の馬揃ひ」と云われる九月九日の祭儀日を特別に「おくんち」と呼び重要視している。昔は村中を挙げ祝ったであろうと「甲年中行事」のうちに述べられている。

 次に流鏑馬奉納の人々が禁忌としている約束事が意味するものは、神々に近づく為或いは神々を尊ぶ為の「清浄、神聖感」を現すもので「かまどの火」を別にし「女人」は近づけない。また、不浄とされる「血」と「死」を忌み重んずるなど、今でも神道がこれを遠い時代から信仰展開のなかに重視してきた歴史がそのままこの神事に生き続けている。 
 当神社で流鏑馬を奉納するには毎年「筒粥祭」明けの一月十五日に申し込んだ馬主の家庭は云うに及ばず、奉仕する者全員がその年の始めから祭りの終わりまで、血のつながる一族の内に死者が出ない事が何より大きな条件で、次いで二ヶ月以前までの期間内に御産が無いこともこれに続いて資格を得る要因である。

 九月一日の初馬揃、九月九日の「中馬揃」(おくんち)、九月十三日の「潔斎始」から「切り火」と一般に呼ばれる一週間の「潔斎」を行う期間に入るわけであるが、現在でもこの七日間は神秘で且つ多くの伝説に富んだ厳粛な期間であり、事実この期間の潔斎振りが待望の神籤(みくじ)に影響を持つ事は否定しがたい事実である。
 
 馬主と言われる奉仕の責任者は、その建物から妻を始め家族の全員(流鏑馬に奉仕する者は残る)を他の場所に移し、改めて生活道具の一切家内悉くを神職により清めて世間一般と隔絶した厳しい自分たちだけの独自の生活を始める。そこには「かまど」の火は勿論、日常吸う煙草の火、また水を始め飲食の類は悉く自分たちの手により調理し世間との交渉を断ち男達だけの生活が営まれる。
 こうした生活を支える中心となるものは「神様に奉仕すると云う清浄感」の一言に尽きる誠の心である。

 やがて九月十五日の「後馬揃」を経て十七日の山王祭宵宮祭を迎える。古文書によると往昔は富士山船津口二合目遊境傍の「りゅう(馬へんに留)ヶ馬場」に出向いた事が記されていて下吉田、勝山の二村が落ち合って流鏑馬が行われた。利害の関係によるものからか年々争いが激しく、しばしば血の雨を降らせた処から武田家の臣「板垣信賢」の命により達しが出されて以降、下吉田・勝山・夫々に行われるようになり下吉田はその後出口・仲町等に点々と馬場を替えて今日に及んだ由であるが、仲町時代はおそらく渡辺明神から雪代堀の堰堤を、今の中央区辺りの「天神社」即ち往時の「山王社」にわたって駆けたものらしく、その名残が現在の山王社祭であると思われる。

 ただ、何故富士山二合目の山宮(上宮・上浅間)小室浅間神社への参向が山王社への奉幣へと名称、祭神が共に変わったのかは判然としない。
 この山王社宵宮祭に弓取りの儀が占人から馬主に伝授される。九月十八日山王社への奉幣使参向に続いて山王社での祭儀が行われ、帰路は往路とは別の道路である西裏通りを通る。山王社祭が終了して、潔斎所に帰ると奉仕者は休む間もなく宵宮祭への参列の支度を急ぐ。既に暮色視界を覆う頃である。小室浅間神社宵宮祭が執行される神前に奉納された神籤(みくじ)が四囲の注目を集め、厳粛の裡に馬主により引かれて「朝馬」「夕馬」が決まる。

 翌九月十九日の祭儀は二時間余に渉る独特のもので、弓渡し・出立(しったつ)の行事他、種々の式が行われ、他では見られない厳粛な珍しいものである。
 間もなく馬場で流鏑馬が行われる。馬の足跡の占いについては占人(うらびと)の家系が稍伝承されており、昔ながらにこの儀式の重要な役割を担う馬蹄占は役馬に限り行われ、最後に山王祭が行われて馬場の上・中・下三カ所で馬首を三回巡らしてそのまま馬主の家に乗り払い終わるのだが、流鏑馬ははじめを「ちらし」と云って助勤者がめいめいで乗り駆けらせる。それから狩衣・烏帽子姿に弓矢を持ち馬を疾走させて矢を射る。最後に行われる山王様の通称「乗り払い」というのは如何にも山宮神様の信仰を現していて面白い。

 占いの結果が報告されるのは十九日の夜に入ってからで、占人より宮司に書状として渡され、直会の席上に読み上げられて報知される。そしてこれが「御日待ち」により各町に持ち帰られて待ち望んでいた占いの結果が示される。御日待ちが行われるのは各町各班によって異なるが、早いところではその翌日からそれぞれ一斉に行われ、小室浅間神社神職は暫くの間この応接に追われる。 
 例年小室浅間神社が執り行う初秋九月十九日の例大祭の「やぶさめ」行事が、多くの関係の辞典類の「やぶさめ」の項目中に「馬のとんだ足跡によりて占いが行われる」と掲載されているのはこの方面を代表する民俗的性格に富む極めてユニークな行事によるからであろう。
 
 謂う迄もなく日本民俗学は現行の文化事象に則り、そこからこの國の宗教、文化等の源流と、その依って立つ伝統としての精神をさぐる処に本来の目的がある。その意味からは、この神事の背景に窺われる村落住民の結合を支えてきた祈念と願望が、時代と変遷の歴史を乗り越えて今日に生き続けている点で意味がある。そうした観点からこの流鏑馬をとらえる時、祭りの伝統精神を見出すことが出来る数少ない集落生活の民俗といえよう。  

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